2011年10月4日午前8時48分。小太郎18歳。柴犬。
明け方に、確かにこたの鳴き声を聞いた。
少し間を空けて、数回。
「もう少し鳴くようなら、様子を見に下に下りよう」
と思う間もなく鳴き声が止んだので、私はそのまま再び眠りに落ちていった。
昨日からひどい腰痛で仕事を休んでいた夫が、「今日もちょっと無理だな」と言ったのは、朝起てから開口一番、「今日はどんな感じ?」と聞いた私の問いへの答えだった。
掛かり付けの整体院の治療は、通常施術後には入浴は控えることになっていたので、朝一番でお風呂を沸かし、夫は入浴後に整体院へ行くことにした。
リビングへ下りていって、まず一番にこたの様子を確認する。
「うん、大丈夫」。
下半身に敷いているペットシートを確認すると、ちっちゃなマカロンほどの固いウンチを二つしていた。おしっこもしていたので、明け方の鳴き声は、「これを教えてくれていたんだねぇ。えらいえらい」と頭から背中を撫でてやりながら、シートを交換した。
シリンダーを口の端から歯の隙間の奥の方まで入れてお水を飲ませると、はっきりと自分の意思で飲み込んでいる様子が伝わってきた。この分なら牛乳も飲めそうだ、と判断して牛乳を与えると、シリンダーに二杯分ほど飲んだ。
「この感じなら、今日も大丈夫だろう」
夫のためにコーヒー豆を挽いてドリップでコーヒーを入れ、私は野菜ジュースでトーストの朝食を済ませた。
朝食の途中で二度ほどこたが鳴いたが、取り立てて変わった様子も感じられなかったので、いつものように側にいってとんとんしてほしいのだろう、と「はいはい、待っててね」とこたには聞こえない声で答えていた。
夫が腰痛のために入浴しようと、そろそろとバスルームへ歩いていこうとしているところを、ふと視線を下に落としてこたを見た。
「ん? どしたかな?」
わずかに呼吸が、乱れていた。
側に行って背中を軽く叩いたり喉を撫でてやっても、呼吸はなかなか元には戻らなかった。
でもそれは、ほんのちょっとだけ何かが喉につかえたり、何か別の理由からわずかに息が詰まったりしたかのようだった。
ちょっと息を詰まらせては、また呼吸する。
そんなことが何度か続いて、私は瞬間に理解した。
息が詰まる時間が、みるみる微妙に長くなっていくことが、はっきりと感じられたからだった。
心配そうに横に立っていた夫は、まだ気がついていなかった。
腰痛のため、こたの顔近くまで腰をかがめることができなかったからだ。
私は、そのことを夫にどう伝えればいいのか分からなかった。
だってこたは、今にも喉につかえていた何かがふっと外れて、また規則的な呼吸を取り戻すかのようでもあったから。
でも、呼吸は戻らなかった。
私は、こたの首に腕をまわしてその体を抱きしめた。
だから何も言わなくても、夫にもその時が来たことが分かったのだった。
「こた、こた、こーちゃん!」
私たちは何度もこたの名を呼び、その声に包まれるようにこたの呼吸は静かに止まり、二度と戻ってはこなかった。
前日、私は昨年やはり愛犬を看取った友人に連絡し、「その時が来たらどうすればいいのか」を尋ねていた。
しかしそれは、「夫が仕事で不在中に、私独りでこたを看取ることになった時」のそのためだった。
彼女のアドバイスで掛かり付けの獣医さんに相談すると、
「中野の哲学堂蓮華寺か、調布の深大寺の動物霊園なら間違いがないでしょう」
と教えられた。
哲学堂ならいろいろな意味で、私たちに馴染みが深い場所だ。
私はホームページで連絡先を調べて、亡骸を自宅引き取りに来てもらった場合(これは私がペーパードライバーのため)、平日から次の休日まで預かってもらった場合、個別の荼毘で立ち会いを望み、遺骨は自宅に持ち帰る希望などを伝え、料金を確認した。
そしてその費用を封筒に入れて、私の仕事デスクの前にクリップで留めておいた。
だがそれは、今朝のためではなかった。
いつか来るかもしれない、私独りでこたの命の終わりに立ち会わなければならないかもしれない、もっと先の日のためだったのだ。
断じて今朝のためではなかったのに。
「僕の腰痛は、美世子のそばにいてやってくれって、そのためだったんだよね」
まるで謀られたかのように、何もかもが整えられた日の朝、こたは静かに、本当に静かに逝ってしまった。
哲学堂蓮華寺に連絡すると、これもまるでそこだけ席が用意されていたかのように、午前中の最後の個別葬の枠が空いていた。
夫がかろうじて腰痛をおして車を出すことができたので、私はおくるみのようにタオルケットにくるんだこたを、最後まで抱いていていてやることができた。
控え室から焼き場に運ぶときにもバスケットを断り、抱いていった。
まだ温かいこたの骨に鼻の先を付けて、軽くキスした。
「志治家小太郎」
そう書かれた小さな白い壺に、こたは納められた。
こたが庭の白木蓮の下で眠りについたあとは、お骨壺と箱は蓮華寺で引き取ってくれることになった。
さあ、こた。
お家に帰ろう。
こたの大好きなお家で、こたの大好きなつむぎと、そしてお父さんとお母さんと三人で、いつまでも一緒に暮らすのだよ。
こたでなければ、あり得なかった人生があった。
本当に強く、賢いこただった。
「お母さんがご飯が食べられるようになるまで、待っていたんだよ」
そうとしか考えられないほど、驚異的にがんばって生き抜き、そして最後まで意識も意思も明朗だった。
明日の朝、こたのいないことって、想像がつかないよ。
そうだね、想像がつかないね。
こたのためにタオルなどを送って下さった多くのマイミクさんに感謝し、こたからのお礼の言葉に代えさせていただきます。
ありがとうございました。
小太郎は、幸せでした
少し間を空けて、数回。
「もう少し鳴くようなら、様子を見に下に下りよう」
と思う間もなく鳴き声が止んだので、私はそのまま再び眠りに落ちていった。
昨日からひどい腰痛で仕事を休んでいた夫が、「今日もちょっと無理だな」と言ったのは、朝起てから開口一番、「今日はどんな感じ?」と聞いた私の問いへの答えだった。
掛かり付けの整体院の治療は、通常施術後には入浴は控えることになっていたので、朝一番でお風呂を沸かし、夫は入浴後に整体院へ行くことにした。
リビングへ下りていって、まず一番にこたの様子を確認する。
「うん、大丈夫」。
下半身に敷いているペットシートを確認すると、ちっちゃなマカロンほどの固いウンチを二つしていた。おしっこもしていたので、明け方の鳴き声は、「これを教えてくれていたんだねぇ。えらいえらい」と頭から背中を撫でてやりながら、シートを交換した。
シリンダーを口の端から歯の隙間の奥の方まで入れてお水を飲ませると、はっきりと自分の意思で飲み込んでいる様子が伝わってきた。この分なら牛乳も飲めそうだ、と判断して牛乳を与えると、シリンダーに二杯分ほど飲んだ。
「この感じなら、今日も大丈夫だろう」
夫のためにコーヒー豆を挽いてドリップでコーヒーを入れ、私は野菜ジュースでトーストの朝食を済ませた。
朝食の途中で二度ほどこたが鳴いたが、取り立てて変わった様子も感じられなかったので、いつものように側にいってとんとんしてほしいのだろう、と「はいはい、待っててね」とこたには聞こえない声で答えていた。
夫が腰痛のために入浴しようと、そろそろとバスルームへ歩いていこうとしているところを、ふと視線を下に落としてこたを見た。
「ん? どしたかな?」
わずかに呼吸が、乱れていた。
側に行って背中を軽く叩いたり喉を撫でてやっても、呼吸はなかなか元には戻らなかった。
でもそれは、ほんのちょっとだけ何かが喉につかえたり、何か別の理由からわずかに息が詰まったりしたかのようだった。
ちょっと息を詰まらせては、また呼吸する。
そんなことが何度か続いて、私は瞬間に理解した。
息が詰まる時間が、みるみる微妙に長くなっていくことが、はっきりと感じられたからだった。
心配そうに横に立っていた夫は、まだ気がついていなかった。
腰痛のため、こたの顔近くまで腰をかがめることができなかったからだ。
私は、そのことを夫にどう伝えればいいのか分からなかった。
だってこたは、今にも喉につかえていた何かがふっと外れて、また規則的な呼吸を取り戻すかのようでもあったから。
でも、呼吸は戻らなかった。
私は、こたの首に腕をまわしてその体を抱きしめた。
だから何も言わなくても、夫にもその時が来たことが分かったのだった。
「こた、こた、こーちゃん!」
私たちは何度もこたの名を呼び、その声に包まれるようにこたの呼吸は静かに止まり、二度と戻ってはこなかった。
前日、私は昨年やはり愛犬を看取った友人に連絡し、「その時が来たらどうすればいいのか」を尋ねていた。
しかしそれは、「夫が仕事で不在中に、私独りでこたを看取ることになった時」のそのためだった。
彼女のアドバイスで掛かり付けの獣医さんに相談すると、
「中野の哲学堂蓮華寺か、調布の深大寺の動物霊園なら間違いがないでしょう」
と教えられた。
哲学堂ならいろいろな意味で、私たちに馴染みが深い場所だ。
私はホームページで連絡先を調べて、亡骸を自宅引き取りに来てもらった場合(これは私がペーパードライバーのため)、平日から次の休日まで預かってもらった場合、個別の荼毘で立ち会いを望み、遺骨は自宅に持ち帰る希望などを伝え、料金を確認した。
そしてその費用を封筒に入れて、私の仕事デスクの前にクリップで留めておいた。
だがそれは、今朝のためではなかった。
いつか来るかもしれない、私独りでこたの命の終わりに立ち会わなければならないかもしれない、もっと先の日のためだったのだ。
断じて今朝のためではなかったのに。
「僕の腰痛は、美世子のそばにいてやってくれって、そのためだったんだよね」
まるで謀られたかのように、何もかもが整えられた日の朝、こたは静かに、本当に静かに逝ってしまった。
哲学堂蓮華寺に連絡すると、これもまるでそこだけ席が用意されていたかのように、午前中の最後の個別葬の枠が空いていた。
夫がかろうじて腰痛をおして車を出すことができたので、私はおくるみのようにタオルケットにくるんだこたを、最後まで抱いていていてやることができた。
控え室から焼き場に運ぶときにもバスケットを断り、抱いていった。
まだ温かいこたの骨に鼻の先を付けて、軽くキスした。
「志治家小太郎」
そう書かれた小さな白い壺に、こたは納められた。
こたが庭の白木蓮の下で眠りについたあとは、お骨壺と箱は蓮華寺で引き取ってくれることになった。
さあ、こた。
お家に帰ろう。
こたの大好きなお家で、こたの大好きなつむぎと、そしてお父さんとお母さんと三人で、いつまでも一緒に暮らすのだよ。
こたでなければ、あり得なかった人生があった。
本当に強く、賢いこただった。
「お母さんがご飯が食べられるようになるまで、待っていたんだよ」
そうとしか考えられないほど、驚異的にがんばって生き抜き、そして最後まで意識も意思も明朗だった。
明日の朝、こたのいないことって、想像がつかないよ。
そうだね、想像がつかないね。
こたのためにタオルなどを送って下さった多くのマイミクさんに感謝し、こたからのお礼の言葉に代えさせていただきます。
ありがとうございました。
小太郎は、幸せでした