どこまでも散歩道〜志治美世子ウェブサイト



いつでも会えるよね、節子さん

2004年8月13日金曜日午前9時5分、田原節子さんは逝った。

私の携帯が鳴り、訃報を受け取ったのは、そのほぼ2時間後だった。

伝えてくれたのは俵萌子さんだった。かねてから節子さんにもしものことが起こったら、そこから先は大手マスコミの担当者たちの手に委ねられ、遺族の方々の手を離れてしまうであろうことから、私のようにフリーで仕事をしていて、どこの組織にも属さない立場の者への連絡がこぼれてしまうのではないか、と心配してくれていた、俵さんの心遣いだった。

その週の月曜日には集中治療室に入り、すでにご家族しか面会できない、と聞いていたので、私が節子さんに最後に会ったのは、その前の週の木曜日で、それが結果的に最後のお別れとなってしまったわけだった。

実は私はその訃報を、福島県の羽鳥湖で聞いていた。夫や友人たちと、前々からの計画で、3日間のテニススクールの夏合宿に参加していたのだ。

「今からすぐに、私だけ帰京しようか」

瞬間思いをめぐらせたが、お通夜と葬儀が翌週の金・土で行われること、夫の総一朗氏がまだ北朝鮮から帰国していないことから、おそらくお別れの対面は叶わないだろうといわれ、私は帰京しないことを選んだ。が、その選択は結果的には間違いであり、結局今も私はそのことを悔やんでいるのだが・・・。

「あのね、高知にね、行くんだ」

安岡佑莉子さんから「一喜会」の一周年記念の会にお招きいただき、生まれて初めて高知の地を踏むのだと、節子さんに話したのはいつのことだったろう。

「そう、だったら私も行こうかな。太平洋の海が見られたらいいな」

そんなふうにこの2月、「一喜会」一周年の会に、節子さんと一緒に参加させていただくことが決まった。その時はすでに車椅子でしか身動きのとれなかった節子さんの参加を、安岡さんがとても喜んでくださったのが嬉しかった。

シンポジウムの司会という大役を仰せつかり、気の小さな私は内心縮み上がりながらもなんとか一周年会を終えた。その後は「一喜会」の皆さんの温かいおもてなしに会話も弾み、節子さんは疲れから途中退席したのだが、自他共に認める「飲んべェ」の私は、高知の夜を堪能した。

翌朝は、車椅子の節子さんをこっそり残し、朝飯前にとばかりに高知城に登り、係員の方が開場時間前であったにもかかわらず入場させてくださったのをいいことに、独り天守閣からの高知市全景を楽しんだ。これをあとで知った節子さんが、どんなに悔しがるまいことか!

昼食を兼ねて案内していただいた海の見える露天風呂では、潮風の中でお湯に手足を伸ばす私たち一行をよそに、節子さんは車椅子に座ったまま、ただ高知の雄大な大海原を見つめていた。

「そう、この海が見たかったの」

節子さんは嬉しそうに、たしかにそう言ったのだ。


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